千粒の涙
■第5章 千粒の涙
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 祖父母の死後。
 一年が経過。
 その間、智彦くんとの交際が途切れはしないか、ハラハラした日々を送っていたのだが、私は相変わらず子育てに忙しく、いずれは廉太がもう少し大きくなったら、智彦くん宅へまた、遊びに行こうと密かに思っていた。
それは、智彦くんと繋がりのある私の祖母を亡くしたものの、智彦くんとの仲はエンドレスだと私は高を括っていたからだ。
当時は、まだ、携帯電話もメールも今ほど普及はしてなくて、用があるときは、家庭用の電話かファックスを利用するしかなかった。
だから、当然、智彦くんと内緒話ができる状態ではなく、それは逆に智彦くんにとっても、不自由であったかもしれない…。
 なにしろ、我が家は自営業。
土、日を覗く、全ての曜日、主人は終日自宅で仕事をしていることが多く、智彦くんが我が家に電話を掛けた場合。百パーセント主人が電話口に出ることになる。そして、その逆に、私が電話を智彦くん宅にしたところで、今度はお嫁さんの三奈子さんが電話口に出ることになる。
そうなれば、智彦くんと私にとっての電話やファックスは用を足さない道具でしかないのだ。
 このまま、生涯において、重要なことを智彦くんに聞きだせないのは何より辛い…。
 そうかといって、私にはどうすることもできないもどかしさだけが募る…。
 時間が解決するまで待っていたとしても…。
 それで、全てが解決するとも思えない…。
 ああ。
私はなんて人間関係のややこしいところに誕生してしまったのだろう…。
 普通の家庭に誕生していたら、こんなにも悲しい涙は流さないで済んだかもしれない…。 唯、時間が解決してくれるのを待っていたとしたら、智彦くんも私も老いは否めないことになる。
望みを果たせないまま、身体が老いてしまうのもまた辛い…。
一体、私はどうすれば、この苦しみから逃れられるのだろうか…。
エンドレスな想い…。
複雑だなと思う…。


 それは、祖父母の死後、珍しく、えり夫婦と私達四人家族が実家に戻っていた日のことだった。  
 しかも、天気の良い午後だったので、私の主人の広志さんとえりの旦那様と我が家の子供ふたりの四人は、実家から徒歩で行ける近くの公園へ出掛けていた。そして、父はいつものように他の部屋で昼寝タイム。
居間では、母とえり、私の三人で静かな時間が流れていた。
 「ゆき。婆ちゃんの妹、咲子さんが最近、病気で亡くなったことは、この前、電話で話したとおりだけど、その後で、問題が起きてね…。えりにはもう、話してあるんだけど…。」
母は静かにそう言ったあと、また、話しを続けた。
 「咲子叔母さんに、子供がいなかったのは、ゆきも知ってると思うけど、咲子叔母さんの旦那さんはもう数年前に亡くなっていて、その遺産は子供のいない咲子叔母さんに全て譲られていたのね。その遺産がこれまで叔母さんが住んでいた家と土地、他にも不動産があって、合計したら、数億円になるらしいの。旦那さんの方の親戚はもう亡くなっているらしく、そこで、今、残っている咲子叔母さんの兄妹でその遺産を分けるということになったのよ。そしたらね、智彦くんの母、良子叔母さんが、『私が咲子姉の近所に住んで、長い時間看たのだから、遺産の殆どが欲しい。』と、言い出したのよ。そしたら、他の兄妹も、遠慮がなくなって、叔母さんの家に置いてあった高価な品物を持ち出したらしいの。それでね。その遺産分与なんだけど、うちの婆ちゃんは亡くなっているけど、今度は、その子供である母までには、分けてもらえる権利があるのね。しかし、智彦くんの母にしてみれば『今日子(私の母の名前)までには遺産は分けない。』って言って立腹らしいの。こんな時、婆ちゃんが生きていたら何と言っていたか…。」
そこまで言うと母はもの凄く肩を落とした…。
私は、この話しを聞いて、とうとう、来るべき時が来たなと思った。
きっと、祖母さえ生きていたら、この弟妹達の長女である祖母はどんな難問でも解決していてくれたに違いない。
『兄妹は他人の始まり。』というが、お金が絡んでくると、その仲は犬猿になり、これまで築いてきた関係は何だったのかと言いたくなる。
 「それでね、ゆきとえり。これからは、智彦とお付き合いをするのは程々にしておいてちょうだい。そうでないと、母は良子叔母さんからロクなこと(悪口)を言われかねないからね。」
ほら。
やっぱり。
最終的にはそうきたか…。
 言い争うのは、親の代なのに、その一段下の私達まで、巻き込むことはないと思うのだけどな…。
智彦くんと私達ふたり姉妹を引き合わせたのは、今は亡き祖母だけど、今度は、周りの他の大人達によってその仲を引き裂かれるようになることは想定外だったな…。
それでね。
私が想像するにあたり…。
智彦くんと、私達姉妹のどちらかが、結婚していたとしたら、智彦くんの母と私の母は犬猿の仲にならないですんだのではないのかなと思う。
お金って、本当に不思議な力を持っているよね。
無ければないで、争うこともないのに…。
子供のいないところには、どうも、遺産というものは残ってしまうものらしい…。
智彦くんのお嫁さんの三奈子さんにしてみれば、良子叔母さんの勝ち取った遺産の一部は、もしかしたら、自分達の生活にも回ってくるかもしれないぐらいの想像はできるだろう。
 しかし、私とえりにとって、咲子叔母さんの残した遺産というのは、今のところは迷惑な物でしかない…。
何故なら、これまで、智彦くんと仲良くしてきた時間を破壊したのだから、歓迎されないのはあたりまえ。
唯。
冷静になって考えると、咲子叔母さんの遺産の額が大きいことから、最終的には裁判になるかもしれない…。
そうなると、智彦くんの母と私の母が言い争うだけでなく、他の弟妹にも、それぞれの言い分はあるだろうから、結果的には、弟妹のまとまりさえもなくなるだろう…。
そんな一族の様子をもしかしたら、天界から祖母は悲しく思いながら見ているかもしれない。
私にとっては、智彦くんと繋がりのある祖母を亡くしたことだけでも、痛手なのに、ここへきて、さらに、一族の遺産相続争いに巻き込まれるとは…。
こんな事態になったら、智彦くんとの仲を単純に時間が解決してくれるとは思えなくなる。
 しかし、ここで、私がどんなに知恵を絞っても、名案は浮かびそうもない。
たとえ、浮かんだとしても、私を取り巻く一族にしてみれば、私は子供扱いにしかされないだろう。
なんともややこしい問題だと思う。

それからの数年間。
 遺産相続の問題は未だに解決したとは、母から聞かされてはいないので、進展もなければ、好転もない様子。
 それは、母達一族にしてみれば、『のんびり、ゆっくり考えてもいい。』と、いうぐらいにしか思っていないのだろう。
でも、それはえりにとっても気が気ではないはず。
智彦くん一家と交際しなくても、他の親戚はいるにはいる。
しかし、その親戚といっても、母はひとりっ子だし、そうなると父親側の弟妹だけに限られてしまう。その弟妹達の子。つまり、私とえりにとっては『従兄弟』ではあっても、お互いこれまでの人生のうち、殆ど関わりがないままであったから、いまさら、付き合うというのもどうかと思う。どちらかといえば、私達ふたり姉妹は父の親戚とは孤立していたような気さえするのだ。
確かに、交際範囲というのは、何処までも広いと困るし、逆に狭いと孤立しているようで寂しい感じがしないわけでもないのだか、何事も、この程々というのは、結構難しかったりするものである。
 だから、といって、親戚全ての人と仲良くなんてことは、出来そうで出来ない事なんだろうなと思う。
智彦くん一家とは、この先の人生においても、お互い穏やかな交際が出来るだろうと思ってはいたのだけどね。
もしかしたら、こういうのが、本当の人生を歩いていることになるのかもしれない。
 こんな複雑なことをエンドレスに考えていても、時間はどの人にも平等に与えられていることには違いはないのだから、私はいつか時が解決してくれる事だけを望んで生きていかなければ、いずれ、あの世で祖父母に会うことがあったりしたら、この件に関しては説教されかねないなと思うのである。
そこで、私が最初に思いついたことがある。
それは、長女が小学校から月一、配布されるプリントにヒントがあった。
その内容というのが、市内の農家で収穫される農産物のことであった。
しかも、それらは彼女達が食べる給食にその農産物が使用されているらしく、月別に何が収穫出来るとか、農産物が育つまでの課程とその生産者が町の何処に住んでいて、モノクロでありながらも生産者の顔とそのバックには畑の様子が写っていて、その方(かた)のメッセージがそれぞれ添付されていたのだった。
 と。
 いうことは、申し込みをすれば、収穫の体験ができるのではないのかと考えた私は、早速、そのプリントを持参して、放課後、小学校の娘の担任を訪ねた。
「すみません。先生。学校から配られたこのプリントのことでお尋ねしたいことがありまして…。」
 「あ。はい。何でしょうか…。」
 「このプリントには、市内で収穫できる農産物のことや生産者の名前や住所が書かれているのですが、ここの方(かた)へ電話を掛けたら、収穫の体験をさせて頂けるのでしょうか?。それでも、よく考えたら、いくらなんでも、見ず知らずの私が電話を掛けたら、相手の方(かた)に不信感を与えてしまわないかと思うので、それなら、このプリントを配布している小学校に聞いてみた方が確かだなと思いまして聞いてみたのですが…。」
そう、切り出した私に先生は暫く沈黙の後、
 「うーん。私だけでは、返事をしかねるので、返事を待って頂けませんか?。」
と、言われた。
それは、確かにそうだとは思ってはいた。しかし、世の中のことは、何でも人に聞いてみなければ分からないことが多くあるし、また、私の言ったこの発言が元で後日、どんなステキな出会いが待っているかもしれないと思うと、
 「返事を急ぐつもりはないので、また、改めて伺います。」
と、だけ告げて、その時はそれだけで帰宅した。
それから返事を待つこと数ヶ月。というより、この間、これといって学校行事もなく、わざわざ出向いてまで聞くことでもなかったので、放置していたといったほうが確かかもしれない。
その日は、都合良く参観日になっていた。
それで、今度は、授業を終えた娘の担任の先生に廊下で声を掛けた。
 「先生。すみません。前にお尋ねしていた件のことですが、あれから、どうなりましたでしょうか?。」
と、言うと、
 「あ。そうでしたね。あれから、教頭先生に尋ねてみたところ、そのプリントは、市役所の方から出しているそうなんです。それで、つきましては、市役所の方で訪ねてもらえませんか?。確か課は農林水産課だったと思います。」
と、返事があった。そこで、
 「先生。どうも有り難うございました。それでは、農林水産課で聞いてみます。お手数お掛けしました。」
と、言って、私はその場を離れた。
そこで、その日の夕食時、ようやく、主人に私の考えを告げた。
 「実はね。私、やりたいことがあるの。」
 「仕事に出るつもりか?。」
 「ううん。そうではなくて、何と言ったらいいのか…。お金にはならないと思うんだけどね。まだ、廉太だって、幼稚園の年中だし、仕事に出たところでパートぐらいにしか行けないと思うのよ。そこで、明生子が毎月一回小学校からもらっていたプリントを見ていて思い付いたことがあって、それは、何だと思う?。」
 「さぁ。ゆきの考えていることが分かればいいけどな。」
主人は手酌をしながら言った。
 「それがね。ボランティアに行こうと思うのよ。」
 「今更、どんなボランティアをするつもりだ?。」
 「まだ、完全に行き先が決まったわけではないのだけどね。私の実家、私がまだ子供だった頃、兼業農家でミカンを収穫していたとあなたに言ったことがあると思うの。それでね、私、こんな痩せた体型での力仕事は無理だから、柑橘系の収穫のお手伝いなら出来ると思ったの。そこで、これから、私の受け入れ先を捜すのだけど、相手が見つかれば行ってもいい?。家事も全てやったうえで、私の時間で行くから…。廉太の幼稚園のお迎えの時間までってことで、行かせてほしいのだけど…。」
 「ところで、その受け入れ先って、これからどうやって、捜すんだ?。」
 「それはね。明生子から渡されていたプリントを持って、担任の先生に聞いてみたところ、『市役所の農林水産課を訪ねてください。』って言われたから、明日、ちょっと、行ってみようとは思っているの。」
 「ゆきがやりたいなら、僕は反対はしないよ。」
そう言って、主人はあっさりと了解してくれたのだった。

翌日、早速、私は廉太を幼稚園に送った後、自宅から自転車で五分の所にある市役所を訪れた。
入り口で、館内の案内板を見たら『農林水産課は本館二階』とあった。
そこで、私は傍の階段を上がり二階へ移動。私の目的の課はその階段を上がって直ぐの所にあった。
カウンターの前に立ち、机に向かう数人の仕事をしている人に声を掛けた。
 「すみません。ちょっと、お尋ねしたいことがありまして…。」
私が恐る恐るそう言うと、カウンター越しに応対してくれたのは、私より少し年輩の女性だった。
 「はい。何でしょうか?。」
そう言いながらその女性はイスから立ち上がると、私の前のカウンターに来た。
私は娘からもらっていた持参のプリントをそのカウンターに広げてから、
 「このプリントは娘の通う小学校から頂いたものなんですが、発行先が市役所だと言われまして、お訪ねしたのですが、このプリントに記載されている方の電話番号に電話をかけましたら、収穫の体験をさせて頂けるのでしょうか?。それでも、よく考えたら、見ず知らずの私が電話をしたのでは相手の方(かた)に不信感を抱かせてもいけないと思いまして、それなら、市役所の職員の方に間を取り持って頂いた方が確実だと思いましたので、出来ましたら、受け入れ先を捜して頂ければ、助かるのですが…。」
と、そこまで、私が言うと、それまで、机に向かっていたその何人かの男性は仕事の手を止め、イスから立ち上がると、私の傍に来た。そして、そのうちのひとりが、
  「今まで、そんなことを言って訪ねて来た人はいなかったから、受け入れ先を捜すのは難しいかもしれません。仕事でなら、雇ってくださるところもあるかもしれないけれど、何?。ボランティア?。」
 「あ。はい。できればそうしたいのですが…。」
 「ボランティアで農作業をしたいだなんて…。」
どうも、私のその一言は、市の職員の方にしてみれば変な奴だと思われたに違いない。それでも、気を取り直す手と、言葉を続けた。
 「私の主人は自営業で塾を経営していて、子供は小学校の四年生の娘と幼稚園年中の息子がいます。そこで、仕事に出るとなれば、子供がまだ小さいので、パートぐらいにしか出られませんし、そうすると、ボランティアなら時間の自由がきくと思いまして、ボランティアを思いついたのですが、収穫時というのは、たぶん、土、日も忙しいと思いますので、そうなれば、ふたりの子も一緒に連れて行ってもよろしいかどうかを相手の方に確認して頂けると助かるのですが…。」
 「それなら、日中の方がいいということですか?」
 「日中と言われましても、幼稚園のお迎えの時間があるので、フルタイムはできないんです。それも、早朝は子供がいるので無理ですし…。」
 「だったら、その収穫の手伝いというのは、どんな作物を希望されているのですか?。」 「できましたら、ミカンか伊予柑とかの柑橘系の手伝いができればと思っています。私の実家は、私が子供だった頃、兼業農家でミカンのみを作っていたのでその手伝いならできると思いまして…。」
と、そこまで、話しが進んだ時だった。
 「話しを一応は聞かせてもらったのだけど、時間もそれほど自由にならないのなら、農家の方(かた)から土地をお借りして個人で作られてはいかかですか?。」
と、また、別の男性の方が話しに加わってきた。そこで、私は、
 「土地は、以前、ミカンを作っていた当時のまま二十年近く放置している畑がありまして、実家の父にも『時間があれば、私の主人とふたりで好きなだけ耕してもいいよ。』とは言われているのですが、主人は自営業で、土、日は留守がちな事が多いので、実家がいくら近所にあっても、私ひとりの力ではどうすることもできず、また、農作物を作る知恵もないので、それなら、自分の空き時間にボランティアに出た方がいいかと思ったんです。」と、付け加えた。すると、
 「そうですか。そしたら、そのボランティアのことは、隣近所の農家の友人の方(かた)に聞いてみた方が確かではないですか?。」 
 そう言われ、
 「私も、初めはそうしようかと思って、友人に尋ねてみたところ、友人関係というのは、どうしても、お互い遠慮というものが生じてしまい、そうなったら、やっぱり仕事にはならないと思うので、それだったら、市役所の方で紹介していた頂いた方が確かだと思いまして…。」
と、そこまで、私の考えを述べた。すると、
 「そうですか。そうでしたら、こちらで農家の方を当たってはみますが、後日でかまいませんので、履歴書のような簡単な自己紹介を書いて持ってきて頂けませんか?。その方が、相手の方にも分かりやすいと思いますし、写真までの準備はいりませんので。」
と、市の職員の方(かた)にも分かってもらえたような返事を頂けた私は、
 「無理なお願いだと思ってはいたので、すみませんが、別に私も急ぐ必要はないので、どうかよろしくお願い致します。」
と、言って御辞儀をしてから、農林水産課を後にした。

 それからの私は、数日後、手書きの自己紹介を書いた紙を農林水産課に提出する為に、再び自転車で市役所に出向くことにした。
自宅を出て、自転車で心地よい風に抱かれる私。
結婚後、職場を離れ、既に十年の時が流れ…。
その間、巡り会った人の数といえば、主人の仕事上の仲間と娘や息子のママ友達のみ。 そのママ友達といっても、お互いを幼い頃から知っているワケでもなく、また、異年齢や転勤族のことが多い為、私はどうも学生時代のように積極的に友達を作ろうとは思えないでいたのだった。
 そうすると、自然と自分の視野が狭くなってしまうことには気付いてはいたのだが、それを解決する策が今まで思いつかなかったせいもある。
が。
 今、この時をたとえ寝たきりであったとしても、祖父母が生きていたとしたら、日々その介護をすることで、私はこんな考えも行動も起こさなかったかもしれない。
特に、祖母は生前、知恵者だった。
寝たきりであったとしても、会話さえ成立すれば、私にとっては最高の話し相手であった。しかし、いつの頃からか、祖母は耳が遠くなり、部屋で転倒する前から、祖父との会話もちんぷんかんぷんなことが多く、傍で聞いていた家族でも、その会話が祖母の本音かどうかさえ理解できないことが多々あった。でも、その会話の大半は笑いを誘うことが多くその場が和んでいたことは確かだった。
 だから、こうして、私が外の人と繋がりを持とうとの考えや時間は、もしかしたら、亡き祖父母の贈り物なのかもしれないと思うのである。
 誕生直後から、精神的にも物質的にも、私を支えてくれた祖父母の死。 
それは、私が想像していた時間よりもずっと早い別れになってしまったのだか、私もいずれ天寿を全うして、あの世で亡き祖父母に巡り会えた時は、祖父母の死後の私の人生は精神的にも物質的にも豊かであったと報告できればなと思うのである。
その為にも、祖父母の名に恥じない人生にしたいと思う。
そう。
 私にも生き方を問われる時が来たようだ。
 今回、私が農林水産課に依頼したことは、凶と出るか?、それとも吉となるか?の判断は今すぐにはできそうもない。それは、きっと、かなりの時間を要することだろうと思う。 たとえ、私の想うことが実現しなかった時は、それはそれで、他の道を考え出せばすむこと。焦る必要なんかはどこにもない。
 それも、また、私の人生だから…。
 そうして、農林水産課を再び訪れてから、三ヶ月後の五月。担当者から電話があった。
その話しの内容というのは、私を受け入れて下さる方(かた)が見つかったらしい。収穫して欲しい農産物は伊予柑。一応はミカン畑の方も当たって下さったらしいのだが、そのミカン畑の位置が悪く、私が運転して車で行くということになってもそこまでの道が悪路で勧めることはできないということであった。
それでも、今回のことは私の人生においてかなりの収穫になりそうである。人生前向きに生きるということはこういうことなのかなと思う。
そこで、後日、農林水産課の担当者と三度話し合って、今度はその担当者とふたりして、私を受け入れて下さる方(かた)の自宅に挨拶に行くことにした。しかし、いくらなんでも、突然、伺うのもまた失礼なので、そちらで、日時を決めて頂いた時間にお伺いすることとした。
そうとなれば、次の私の悩みは、受け入れ先の方(かた)に会う為の服装ということになる。別に就職するわけではないのだから、固く考えなくてもいいようなものだが、だらしのない服装だと、相手の方に失礼だし、頼んだ仕事もロクにしないのではないのかと思われるのも嫌だったので、私はグレーのパンツスーツで出掛けることにした。その足下もハイヒールとかではなく、低めのパンプスにした。何かを始めようとする時って、その第一印象は大切にしたい。
 そのその方(かた)の名前は宮ノ内田(みやのうちだ)さん。職員の方の話しだと、年齢は、私の父ぐらいの年らしい。宮ノ内田さんの自宅は、私の自宅から車で十分ぐらいの所にあった。今回は、まだ、私がペーパードライバー故に農林水産課の担当の人が運転する公用車で連れて来て頂いたのだが、この先、ボランティアを続けるとなれば、自分で運転しなければ、何の意味もない。私を受け入れて下さる先が見つかったのは嬉しいことなのだが、私には伊予柑の収穫を始めるまでのこれからの半年間にどうにかして車を運転できるようになることが、今後の私の課題となった。
 「はじめまして…、お世話になります。花岡です。宜しくお願いします。」
玄関先で少し緊張気味に挨拶した私に、宮ノ内田さんは、
 「ここで、話しもなんやから、畑にでも行きましょうか?。畑の位置が分からなかったら、仕事にらなんやろうからな。」
と、いうことで、私は再び公用車に、宮ノ内田さんは軽トラックで移動することとなった。助手席の私は道を覚えなくてはいけないなと真剣に窓の外の景色を眺めていたら、車に揺られること二分強で現地に着いたようだった。職員の方に言われるまま、車を降り、そこから、少し歩くと直ぐに、宮ノ内田さんの畑に到着したようだ。
 この場所というのが、傍には二級の川が流れている河川敷き内といえばいいのか…、恐らく、私の想像からすると、昔、この川の橋は今よりももっと短いもので、堤防が後退したことで、橋の内側に畑が残ってしまったのだと思われる。そんな場所がここにはいたる所にあった。しかも、幹線道路からそんなに離れてもなく、道もそんなに悪路ではないことから、これなら、初心者マークのような私でもどうにか車で来れそうな所であった。
 「十一月の始め頃から、収穫しようと思うてるから、その時になったら、連絡するけど、なんだったら、剪定もやってみるで?。」
どうやら、宮ノ内田さんは好意で私に勧めてくれているようだ。しかし、私はこれまで、農作業の体験といえば、収穫ぐらいしかなく、剪定なんてことは、一から教えてもらわないといけないことだし、そのことで、逆に迷惑をかけるのもなんだったので、
 「私のようなものでも、できますか?。」
と、尋ねると、
 「できるよ。」
との即答。
にしても、実家でジュースにしかならないミカンの収穫しかしたことのない私にとって、切ってはいけないの枝を切り落としてしまっては、後の収穫にダメージを与えてはマズイと思い直し、
 「私は、収穫だけ手伝います。」
と、告げた。すると、
 「また、なんで、こんなこと思いついたんで?。」
と、宮ノ内田さん。そこで、
 「何だか、急に農家の手伝いがしたくなったのですが、私には力も、知恵もないので、収穫の手伝いならできるのではないのかと思って…。」
そこまで、言うと、
 「今時の人にしては、珍しいことを考えるんだね。それも、仕事でなくで、何?、ボランティア?。」
ほら。
やっぱり。
そこへ行き着いてしまうのね…。
別に私は悪いことをしているとは思ってないんだけどね。
ま。
もしかしたら。
私も、『ボランティアをしたい。』だなんてことを、誰かが言ってきたら、宮ノ内田さんのように、そう聞いてしまうかもしれないな…。
だって、どう考えたって、見ず知らずの人が『ボランティアをしたい。』と言ってきたりしたら、他の目的で近づいてきたのかと疑われてもしかたがないもんね。
 だから、私との間に、市の職員の方に入ってもらっても、こう言われるのだから、突然、伺ったりしたら、やっぱり、門前払いになるところだったってことね。
何かを始めること…。
は、勇気も必要だけど、それが人々にとって良いことであったとしても、疑われてしまう現代は悲しいかなと思う。
そこで。
本来は、友達の農家の方のところで、ボランティアをすればいいのだろうけど、どうも、友達という関係はややこしいといえばいいのか、お互い遠慮が生じてしまい仕事になんかはならないのではないのかと思う。そう考えれば、全くの他人であれば、仕事もはかどると思ったのだけどね。
そんなわけで、私は、行く先々で、質問責めに遭うことに…。
でも、その生き方は自分で選択したこと。
 どんな質問に遭っても、私が怯まないで答えれば、相手の方も分かって下さると信じて…。
 そう。今の私の最大の目標は、心豊かに人生を過ごすこと。 
何かの悲しみで涙を流して過ごすのもまた、人生だけど、同じ時間を過ごすのなら、有効に且つ楽しく過ごした方がいいのに決まっているから。
それも、お金に換わる仕事ではなく、上手くいえないけど、『優しさのお裾分け』ができればなと思うのである。
善意というのは、人の心を結びつける強さはあると思う。
今から、私が起こす行動を他の人に勧めるつもりも、また、そのことに関しての功績を残すつもりもない。
私ひとりが変な奴であってもかまわない。
しかし。
こんな生き方をした人に巡り会ったことだけは、胸の片隅に留めておいてほしいなと思うのである。
この時間とボランティアをしようとの考えは、亡き祖父母がくれた贈り物だから…。



 そして、農家の方の面接を終えた私の次の目標は車の運転をすること。
これまでの私の結婚後の生活といえば、地方の田舎であるとはいえ、町の中心に住んでいたことから、生活の為の銀行や郵便局、病院、幼稚園、小学校、スーパー等が自宅から徒歩圏内にあり、自転車さえあれば十分であったのだが、これから、通うボランティアの先は、町から少しばかり離れたところにあり、それでも、自転車で通えないわけでもないのだが、いくらなんでも、自転車でそこまで行って、仕事をするとなれば、話しは別。車の運転をしないわけにはいかない。それも、ボランティアの為に主人に送迎してもらったりしていては、何のためのボランティアかということにもなる。
もともと、自宅には、ワゴン車と軽自動車のそのどちらもオートマ仕様が各一台あって、その軽自動車の方は主人がセカンドカーとして、時々しか乗らないままであった。
そこで、ボランティアをするために車を購入しなければらならない状況ならまだしも『ある。』のだから、これはなんとしてでも運転できるようにならなければならない。
そうなると、どこで練習する?。
 いつから始めるの?。
免許を取得してから運転しないままの二十年の時間は長すぎる?。
だったら、やっぱり、料金をもう一度支払って自動車学校に行った方がいいの?。
あれこれ、迷った末。私の出した結論は、普段の日の午前中。この時間帯なら、主人の仕事には支障がなく、また、ふたりの子供もそれぞれ、小学校、幼稚園に行っている時間だから、主人には助手席に乗ってもらい、まずは、近所のスーパーへ。
自宅前の道路は片側だけの狭い通りではある。しかし、周りは田んぼと畑。見晴らしは十分良い。これが、家の密集しているところだったりしたら、私は自宅からの運転も躊躇してただろう。しかも、都合の良いことに、自宅前の通りは、百メートルも進めば、片側一車線の幹線道路に出るようになっていて、今の時点では、満足にバックも出来ない私でも、この通りにさえ出れば、どうにかなるような広さが十分あった。
その幹線道路に出る少し手前から、方向指示器を左に出す。自宅近所のスーパーはこの位置から、左右どちらにもあるのだが、信号機もないところで、道を横断するともなれば、やはり、緊張してしまう。それも、主人に横に乗ってもらっていてのことだから尚更だ。そこで、私は自分の運転しやすい道を選ぶことにした次第。
幹線道路に出てからも、ノロノロ運転な私に、
 「せめて制限速度の五十キロは出さんと、後ろの車が困ってる。」
と、主人。
 「それは、分かってはいるんだけどね。」
 「母さんの運転見ていたら、替わりたくなる。」
 「そこで、替わってしもたら、いつまでも、乗られへんやんか。そうやって、今まで、父(主人の呼び名)の横に乗ってたから、その附けが今、回ってきたのよ。暫く、我慢して乗らせとったら、そのうち、父が困らんようになる日もある。そう思うとったらええ。」
 「そうかもしれんが、素面で母さんの横に乗るのは、やっぱり、怖い。肩に力が入って肩が凝る。」
 「それは、自分が運転できるからそう思うんであって、お義母さんは自分が運転できんから、お義父さんの横に乗っても何とも思わないんだろうけど、私は、これでも、事故さえ起こさんかったら、車の運転できるわけなんやから、お義父さんの運転は怖いと思うてるんよ。」
 「親父は、若かった頃の気持ちのままで運転してるから、いかんのんや。」
 「父もそう思う?。」
 「親父は昔、スピード狂やったらしい。だから、俺は安全運転なわけ。」
主人のその一言に、即座に反論!
 「何、言うてんの。そのお義父さんの血をもらってるんだから、そんなことあるはずがない!。」
 そう言った時だった。
 「どのみち、バックも、駐車もできんやろうから、ここで、降りて行って来い。サイド引いて、パーキングに入れんかい。早うせな、後ろの車が待ってるで。」
そうでした。幹線道路隣接のスーパーの駐車場に一応は入れたものの、今の私の運転能力といえば、前進あるのみ。タイヤの位置がどこにあるのかさえも分からないまま運転しているのだから、主人に言われてみれば『危ない奴』と思われても仕方がないかもしれない。
 「そしたら、よろしく!。」
私はその一言を残すと、運転席から降りた。
そんなパターンで主人と何度か外出。
しかし、これでは、いつまでたっても、車庫入れは出来そうもない。
だったら、どうしたらいい?。
思い付いたのは、家族で何度か行ったことのある市内の中央公園。
その公園は、自宅から車で十分弱の所にあり、土、日のイベントで使われている以外は、利用している市民も少なく、また、ここなら、駐車場も広く、私のような運転未熟な者でも練習場所としては十分だった。
 「私、明日っから、以前、連れて行ってもらったことのある中央公園に行くから。そこなら、駐車場も広いし、練習するには十分だと思うのよ。」
と、主人に話したら、
 「ま、行くのはええけど、気を付けて行けよ。」
って、即座にOKの返事。

 翌日は、天界が私に味方をしてくれたらしい。ドライブ日和の晴天。
娘を小学校へ送り出し、息子を幼稚園に送った後は、主人と自宅でランチタイムまでは、私の時間。そこで、急いで洗濯などの家事の残りを済ませ、車に乗り込む私。
結婚後、十年の時間が流れ、その間主人とは一心同体のような生活をしていた私。しかし、そんなに密着していた人生でも不満はなかったな。何故って、主人は、土、日は留守がちだけど、普段の日はいるわけだから、ふたりの子が幼い時は、この子達の昼寝時間が私の時間。たとえ、自転車にしか乗れなかったとしても、町は近く、ふたりの子は主人が見ていてくれるわけだから、ささやかでも、私ひとりの時間の確保はできていたことになる。
今時のパパのように、ミルクやおしめの世話をしてくれなくても、私にとっての主人は、『子供を見ていてくれる。』ただそれだけで十分であった。
そして。
今。
本来なら、自分で車を運転して出掛けようなどという時間が、私に生まれてこようとは、想像もしていなかったこと。
それも、誰かの為に…。
ではなくて…。
 ただ。
 もう少しだけ、許される時間があったとしたら、亡き祖父母が生きている間に何かをしたかったなと思う。
私が車を運転することで、祖父母と共に、毎日の食品の買い出しや時には、どこかで食事をして、もっと、もっと、思い出を重ねたかったなと思う。
出来なかったことばかりを数えてこの先の人生を孤独に生きていくよりは、今から、残せる何かを考えればいいことかもしれない…。
だけど…。
 今の私の置かれている状況といえば、時間には比較的余裕ができたものの感情は『四面楚歌』状態。
どこにもストレスの捌け口はない…。
智彦くんとの間は、極最近、私が携帯電話を持つことで、メールを始めたのだが、文字だけだど、どうも、上手く伝えられない。
それに、これまでに、お互いのことを知り尽くしてしまっていることから、電波で繋がったところで、破壊の進んでしまった私の心は、きっと、もう二度と健康な心は取り戻せない。
 この現実と、私はどう向き合えばいいのだろうか…。
 私は、安全運転を心掛けながら、車を公園へと走らせた。

 幹線道路を外れ、公園通りを少し行くと広い駐車場が見えてきた。私の予想通り駐車されている車は殆どなく、人影さえ見あたらない。ここなら、どんなに下手な車庫入れの練習をしても笑い者にはならないだろう。とりあえずは、バックができるようにならなければ、ボランティアをする伊予柑畑には通えないことになる。
そうは思っても、今日は私の記念すべき『ひとりドライブの日。』
せっかく、ここまで、来たのだから、車を降りて、以前、家族で来た時に行ったことのある少し離れた所の展望台まで、歩いても罰は当たらないだろう。
と、思い直し、とりあえず、車を前進で駐車の枠に止めることに。
エンジンを切った後で、持参の携帯電話で自宅に電話。
何度目かの呼び出し音の後、主人の声。
 「あ、私、今着いたから。」
 一言だけの会話であっても、主人に不必要な心配や詮索をされないためにも私にとっては必要なこと。
 そして、私は車から降りた。
ドアにロックを掛け、展望台への道を歩く。木々の間からはまぶしい程の光が私を包む。
 その道を暫く行った先には、砂場やブランコ、滑り台等がある広場がある。その広場に出ると、ようやく、幼児を連れた何組かの親子に出会った。よちよちと歩くその子供の姿に、我が子もこんな時からココへ連れて来ていたら、親子で他のエリアの友達が出来ていたかもしれないなと思う。これまでの私は、車を運転してまで自宅から離れた公園まで外出しようとは全く思わず、いつも、子供達と行く公園は自宅から徒歩十分ぐらいで着くところに行っていた。自宅近所の公園だと、田舎であるが故に巡り会う友達の数もずっと少なくなるのだが、その当時の私はそれでも十分だと勝手に思っていた。
 「こんにちは。」
 勇気を出して、通り掛かりの親子連れに挨拶してみたのだが、相手の反応は冷ややかだった。
それは確かにそうだとは思う。
子連れでもない私がこんな時間にこんな所をひとり歩いているなんて、彼女たちにとっては『へんなおばさん。』と思われてもしかたのないことかもしれない。
なんだか、住み難い世の中だなと思う。
 その広場を少し行った所に、展望台に続く階段は始まる。その階段の両側には、名前も知らないのだが、なんだか、とても心和む小さな花々が咲いていた。
階段を登りきった先には、今時の流行なのか、ブランコと滑り台とうんていが支柱を共有している遊具があった。この遊具は、先程、私が通過してきた下の広場にある遊具とはサイズが異なり、小学生でないと幼児ひとりでは上手く遊べない物であったから、ここは、小さい子供の声も姿もなく、静かな時間が流れている場所だった。
 私は、さらに、一段高い位置のいくつかあるうちのベンチのそのひとつに腰を下ろした。その頭上には、季節がきたらその花を咲かせるのであろう藤棚があって、今は日陰の役目を果たしていた。
ベンチに腰を下ろしたその視線の先には、見渡す限りの瀬戸内海が青く広がっていた。遠くには島々の影。その島々の間から、タンカーや漁船の姿も見て取れる。
この時間、仕事を持っている人は働いている時間だ。何度か、智彦くんからもらったメールのうち、いつだったか、『勤務先が海の見えるところの事務所になりました。』とあった。ところが、この勤務先、智彦くんの自宅からは、電車を乗り継ぎながら片道二時間は十分かかる距離。都会に住んで働く人は、田舎の人と比べるとその会社までの移動時間が長いのは大変だなと思う。
『海が見える。』ということは、もしかしたら、智彦くんと私は今同じ海を眺めているということになるの?。
 あの時…。
智彦くんが財布を無くした夜…。
後先のことなど全く考えずに…。
智彦くんがひとり暮らしをしていたアパートで、智彦くんに抱かれていたとしたら…。 今、こんなにも苦しまなくてすんでいたかしら?…。
 それとも、今よりも、もっと苦しんでいたかしら?。
でもね。
万一、智彦くんと私が結婚できていたなら、智彦くんの母・良子叔母さんと、私の母・今日子とは、兄妹の遺産相続で犬猿の仲にはならないですんでいたかもしれない…。
 今の私が、何よりも辛いことは、こんなことを考えてしまう時間が存在すること。
もし、まだ、たとえ寝たきりであったとしても、私の祖父母が生きていたとしたら、今頃、私はその介護に負われていただろうし、万一、祖母の弟妹間のトラブルが発生しても、祖母がなんとかしていただろうと思うのである。よって、智彦くんとの仲をこんなにも早く裂かれることもなかっただろう。 
今、ここで、私が海からの風に抱かれる時間は亡き祖父母がくれた時間であるとはいえ、解決方法の全くない迷路をひとり彷徨うのはとても辛い。
そうかといって、涙を流す場所もなければ、胸の内を明かしてしまう相手もいない…。
 だったら、その涙を流す時間とエネルギーは、他のモノに代えればいいっていうことなんだろうか…。 
そうしたら、やっぱり、私はボランティアに行った方が、まだ、マシってことだよね?。 その時間だけは、辛いことを考えないですむはずだから…。 
 それとも…。
 もうひとり。
 第三子を望むかである。
 これまでの時間は、子育てをすることを第一と考えていたし、いずれ、ふたりの子が小学生になった時は、以前からの念願だった智彦くん一家との交際を再開すれば、他に望むことは何もなかったのにな…。
 それを、ここへきて、いきなり断たれるなんて…。
こんな状況って、『八方塞がり』とか、『四面楚歌』って、いううんだろうな。
 周りの大人達の勝手で、智彦くんとは、『兄妹』になったり、その『仲を裂かれたり』するのは辛いなと思う。
これが、『一族であるが故の不幸。』なんだろうな…。
 そんな私には、日々、更なる不幸の時間というのが、まだ、ある。
 それは、日々、自宅近所のスーパーへ食品の買い出しに行くと、そのスーパーで、必ず何組かの夫婦に出会うことであった。何故?それが、私にとって辛い時間なのかといえば、
ご主人様らしきその人は、その腕に生後間もない赤ちゃんを大事そうに抱え、その傍には、その赤ちゃんの母親らしき人が寄り添うようにして、買い物をする姿。
時には、その赤ちゃんが幼児であったりすることもあるのだが、そんなカップルを目にするのは身を切られるぐらい私には辛い…。
何故なら、智彦くんとはお互い独身であった時、他人から見ればカップルであるかのように、仲良くショッピングを楽しめたのだけれど、お互い別の人と結婚することによって生じる『大切な家族にはなれなかったこと。』に繋がってしまうことになるからだ。
 以前、私が二才六ヶ月の娘・明生子を連れ、智彦くんの住む町に行った時、一瞬ではあったものの、智彦くんは私の娘をその腕に抱いたことがあった。何故、そんな行動を智彦くんはとったのか?それを聞き出すことは、もう、たぶん、不可能に近いことなんだろうけど、それだけ、智彦くんにとっても、私には心を寄せる何かがあったのかもしれない…。
 智彦くんに大切にされた時間が長かったぶん、私の心の成長は智彦くんに初めて出会った当時十二才だったあの日から止まったままなのかもしれない。
 どんなにお互いが心を寄せていたところで、叶わない恋がある。
あの時、何かの手違いで、智彦くんに会うことがなかったとしたら、お互いをここまで深く傷つけあうこともなかったかもしれない…。
だけど、私には、一つだけ良いことを智彦くんは教えてくれたような気がする。
それは、『打たれた分だけ、強くもなれば、その心は優しくもなれる。』ということ。
 ストレートには叶わない恋に焦がれた時間は私にとっては、無駄ではなかったと思いたい…。
 田舎者の私に『恋の疑似体験』を教えてくれた人。
『有瀬 智彦』
あなたは、なんて不思議な人なのでしょう。
 残酷な巡り合わせだったとはいえ、楽しい時間も、また、解けない魔法も私に掛けた人…。
 あなたに巡り会っていなかったとしたら、その心は傷つかずにすんでいたかも知れないのだが、今のような心の成長はなかったかも知れない…。
もしも、もう一度、この世に生を受けることがあったなら、私は、智彦くんと不完全な他人ではなく、『あなたの妹』として、生を受けたい…。
何故なら、今のような苦しみだけは味あわないですむでしょうから…。
 でも。
 もしかしたら…。
完全な『妹』として、生を受けていたとしたら、私はここまで可愛がってはもらえなかったかもしれない…。
その…。
妹でも、また、完全な他人でもなかったから、可愛がってくれたのかも知れないとも思うのである。
私のこれまでの人生は、『有瀬 智彦』あなたがくれた時間でもある。
 だから、せめて、巡り会ったことを後悔しない人生を歩かなければなと思う。
 そうしていれば、また、いつか、智彦くんと私達姉妹の間に流れる時間は穏やかになるかもしれない…。 
それだけを願うより他はない…。
 そして。 
私の二つ目の望み。
 それは、車の運転がいつか上手になった時、智彦くんと運転免許のない三奈子さんを車に乗せて町を走ること。そうすることによって、今まで、智彦くんに大切にしてもらっていた時間の恩返しができればと思う。
 そう思うのなら、『善は急げ』っていうからね。
 そんなわけで、私は、その日以降、悪天候でない限り、車の運転の練習にその公園に通った。
 ひとりになって、冷静に物事を考える時間。
 本当は、このひとりになる時間は私には酷な時間でもあった。
傍には、私を知る人がいないことから、ともすれば、頬を涙が伝いそうになる…。
今、ここで、私がどんなに涙を流したところで、この『四面楚歌』である状況からは抜け出せないことは分かっている…。
 たとえ、私のこの複雑な想いが智彦くんに伝わっていたところで、どうにもならない現実…。
 それを悲観して、自殺したところで、私の望みが果たせるとも思えない…。
逆に、あの世で巡り会うであろう、閻魔大王に責められて、地獄に落とされてしまうのがおちだ…。
 今、ここで生があることが辛いからといって、死を選択する勇気さえない私…。
まさに、『生き地獄』というのは、こんな状況をいうのだろうか…。
 これまでの、私の人生は、祖父母の死までの時間は、物質的にも精神的にも恵まれていた。唯一、不自由であったのは『恋愛』ができなかったこと。
 しかし、それはその環境の良さが原因で、他の人に関わろうとも思わなかったことがあげられると思うのである。
 狭い視野でありながらも大切に育てられた私。
もし。
 この環境がなかったとしたら、今頃の私は、今とは全く異なる悩みの中で生きていたかもしれないとも思う。
 そうだとしたら、個人的な『幸せ』というのはどんな『かたち』なんだろうかとも思う。
それは、個人によって、違うことなんだろうけど。そうだな。私だったら、『物質的』に恵まれているよりも、『精神的』に恵まれている生活をとるかもしれない。貧乏で子沢山でそれでも、周りの優しさに包まれて生活できれば、また、それも人生なんだろうなと思う。
 その人が誕生した時の『環境』というのは、その人の人生において一番左右されることだろうと思う。
 一組の男女が巡り合って、何の障害もなく結婚するのは理想だと思う。しかし、世の中って、そういうわけにはいかない場合もある。しかし、その越えなければならないハードルが高ければ高いほど、恋人達は輝くのではないのだろうか…。自分の一生を決める大切な『結婚』であるからこそ、『はい。そうですか。』と気安く返事をするわけにはいかないのだろうけど…。
その時は良くて結婚しても、現代はのちに離婚してしまう人も少なくはないらしい。人は、相手を『好き』になるからこそ、『嫌い』にもなるのだそうだが、私の場合、相手を『好き』になることも、また、『嫌い』になることもできない関係。しかも、今は、私の理想としていた『妹』になることさえも許されないなんて…。
永遠に仲良くするなんてことは、同じ一族でありながらも結局は無理なことなのかもしれない…。
 私のため息は、一体どこまで続くのか。また、このため息は何処に持っていって処分したらいいのだろう…。
複雑なことをエンドレスに思っていても、仕方のないことだとわかってはいるんだけどね。
 つい。
ひとりになると、考えてしまうんだよね。
 悩みを抱えている人も、いない人も同じように時間は過ぎてしまうのなら、他のことにエネルギーを使った方が、だいぶ、マシな人生かもしれない。
そう思ったからこそ、『ボランティア』を思いついたんだしね。そこで、他人の為にエネルギーを使うことで、新たな出会いでもあれば、人生はもっと心豊かに過ごせるとは思う。


そして、始まったボランティア。
 農林水産課から、呼び出しがあれば、私は時間の許す限り何処へでも出掛けた。
草刈り。苗床の準備。
野菜の収穫。袋詰め。
 手を掛ければ掛けるほど、育つ野菜達を見るのは本当に嬉しかった。
 さらに、その時に巡り会った農家の方達は、誰も快く親切で私は一生の心の財産を得たような気がした。
ただ、残念なことに、ボランティアというのは、当初お互いが見知らぬ人同士の巡り会いであっても、何度か仕事をするうちに、お互いに遠慮が生じてしまうものらしい。
 だから、コンスタントに長い期間、通える先がないのは少し残念だなと思うのである。
そこで、今度は何をする?である。

 暫く、考えた…。
でも。
 答えなんて出ない…。
その後は暫く時間だけが過ぎていった。

 農作業のボランティアをしなくなってから、一年が過ぎようとしていたそんなある日のこと。
 今度は息子・廉太が通う幼稚園から、一枚のプリントが流れてきた。
 『自閉症児について、勉強しませんか?。』
 その発行先は、市の福祉センターからであった。
 期間中、講義は四回。全て午前中のみで、月一回とある。そして、第一回目は、自閉症児に関わる専門の先生の話を聞くとあった。もともと、福祉関係のことには関心のあった私。
そこで、早速、申し込みをする前に、やはり、主人には一言断っておこうと、その講座の話をしたところ、主人からは、
 「ゆきの時間で行くのなら、行ってもいいよ。」
とのお許しを頂いた上で参加することに。
 その講座が開催される場所も市の福祉センター二階会議室とある。これなら、自宅から車で三分もあればおつりがくるほどの近距離で、しかも、駐車場もあるから、運転歴初心者マークに近い私でもどうにかなりそうだ。
 そして、当日。 
 指定されていた会議室に行くと、集まっていた年齢層といえば、私より年上の婦人の方が多くいた。人数も三十人ほどの小さな規模のもので、これなら、話しもよく聞けそうだなと思っていた。
が。
 しかし。
 マナーの悪い?奴というのは、どこの世界にもいるようで、講師の先生が話し始めて十分後ぐらいに、前の黒板脇のドアが急に開いたかと思うと、年輩の婦人がふたり堂々と後から入室してきた。
 それも、黙って、空いている席につけばいいものを、『遅れたわ。』とかなんとか言いながらの着席。せめて、『遅れてすみません。』とは言えないものかと私はその婦人の言動を腹立たしく見ていたのは、私だけではないと思うのだが…。
 いくら、この講座が無料で開かれているとはいっても、講師の先生はボランティアで来て下さっているのだから、どんな理由で遅れたのかは知らないのだが、せめて時間厳守のマナーくらいは守れないものかと思う。
 だって。 
 いくら、考えたって。
自分がもし、講義で話す立場だったとしたら、遅れて入室してきた人に対しては、文句の一つでも言いたいのが人間ではないのかとも思うのである。
 そんな幕開けの講座ではあったのだが、二回目は、実際に自閉症児を育てている主婦でありながらも、その経験を他の人達にも理解してもらいたいという想いから、全国レベルで講義を展開しているという方の生の声を聞いて、前回の専門の先生の話しより、よりリアルで分かりやすく、私は健全な身体と心で生きている今、何をすれば良いのかということを深く考える時間をもらった様な気がした。
そして、三回目。
今回は、この地域で実際に自閉症児を育てている母親とその子供と関わりながら、簡単な食事を作り試食をするというものだった。
 しかし、これまでの人数制限のない講義とはワケが違い、自閉症児がパニックを起こさないようにとの配慮から、先着順で参加できるのは十人までとなっていた。
その食事会を開くという日は、私には特に予定のない日ではあったのだが、さすがに先着順となれば、外れるかもしれないという心配はあったのだが、一応申し込みだけはしておいた。
すると、その日の一週間前。私宛に一通の封筒が届いた。
差し出し人は『保健センター』とある。
早速、封を切る。入っていた紙には『エプロン、三角巾、マスクを持参の上、御参加下さい。費用はいりません。』とあった。
 どうやら、外れずに済んだみたいだった。
 ラッキー。
 今までの私のくじ運というのは、特別良いわけでも、また、極端に悪いわけでもないのだが、人数制限となれば、まず、当たらないだろうなと思っていた。
 だいたい、殆どの人にはそういった障害者との交流の数事態が田舎では極端に少ないのだから、申し込みをした人全てが参加できてこそ価値のあるものではないのかと思うのである。
だから、外れてしまった人は、『すみません。』である。 
そして。
当日。
私は喜び勇んで、保健センター内の調理室に足を運んだ。
以前から、福祉のことに関しては、関心はあったものの自分ひとりではどう行動すれば良いのかさえも見当がついていなかったことなのでこういった活動があるのは、これからの世の中には必要なことではないのかと思うのである。
 その日は調理を始める前に、簡単なミーティングが始まった。これが大人だけの集まりなら省略しても差し支えのない料理メニューであるのだが、自閉症児も含まれるとなれば話しは別らしい。
調理室隣接の和室の試食室に参加者が集まり、それぞれが自己紹介の後、料理の説明を受けた。そして、今回参加の自閉症児の母親は、子供の発達を促す為にも他の部屋で待機するということであった。今回参加の児童は小学三年生から五年生までの五名。全てが男児だった。
彼らは、一見すると、他の子との区別が私にはつきにくかった。奇声を上げるわけでも、また、部屋や廊下を走り回るわけでもなく、黙って、自らの母親に寄り添っている姿は、我が子と同じであったからだ。
 一言で『自閉症』といっても、その症状は『十人十色』。こだわることも違えば、他人の話を聞いて覚えるよりも、見て覚えるというのが得意とする人までいるということらしい。さらに、同じ様な症状の子は少ないとはいえ、今、私の前にいるその五人の子供達の症状は比較的軽いのではないのかと思った。そうでなければ、危険な火や包丁を使っての料理をすることは不可能だと思うのだ。
 それでも、『普通の子』と区別されてしまうその子供達の両親の葛藤を想像するにあたり、それは穏やかなことではないだろうなと思うのである。 
 障害とは、いつか治ったり、必ず治る病気ではなく、生涯において自身につきまとうことである。それは、その母親もそう産もうと思っていたのでもなく、また、その子もそうなろうと思って誕生したわけでもないのだが、世の中ってなんだか不幸だと思う。だから、その心の痛みを分かりあえる教育はどの人にも必要ではないのか…。障害がある人、ない人に関わらず、誕生直後から、それも身内だけとかでなく他人の健常者と関わりながら生きていける世の中に近未来はなってほしいなと思うのである。
 核家族になってしまった現代。
 祖父母の話しを聞くこともなく、時間が許す限り多種多様な塾に通う子供達。
 兄妹の数も少なく、障害のある人との関わりのないまま育ってしまう子供が殆どだと思う。そこで、近未来は障害のある人、ない人に関わらず、希望すれば一つ屋根の下で義務教育を受けることが出来ればなと思うのは、私の我が儘だろうか…。障害の程度によっては、付き添い云々で、だいたいは受け入れが困難なことが多いらしい。それは、ボランティアで乗り越えれば、障害児の母も楽が出来ると思う。障害児をもつ母親だって、ひとりになる時間は大切だと私は思うのである。
そして。
今。
 私の目に映る五人の自閉症児達。
もしかしたら、今は普通の子と変わりがないように見えていても、これまでの課程のことを考えれば、その子供達の両親の葛藤はいかばかり強いかと思われる。
神様は、この両親であれば、大切に育てるであろうと御考え、時々、この世に障害児を誕生なされることがある。
そのことについてある障害児をもつ母親は、
『宝くじに当たったようなものなのかもしれない…。』
と。
確かに、そう言われてみれば、そういうことになるのかもしれないのだが…。
私は、そんな発想のできる人を尊敬してしまう…。
ただ、物事は、どんなことにおいても、考えようだとは思うのだが…。
 それでも、障害とは風邪のようにいつかは完治するそんな単純なことではないのだから、私だったら、まずその生涯において、割り切れない心を抱えたまま生きていくことになるだろうと思う。
そんな私のこれまでの人生を思う時。
たとえ、想うヒトと結ばれなかったとしても…。
それは。
優しくて、楽しい時間であった。
葛藤らしい、葛藤もないままの人生。
そんな穏やかな人生だけを選択して、歩いていたとしたら…。
それが、私の運命であったとしても、いつかは、必ず、どこかでそれらの附けがまわってくることになりはしないか…。
もし、そうだとしたら、こうして、私が障害児との繋がりのきっかけをくれたのは、今は亡き祖父母がくれた時間には違いないのだから、大切にしなければ、罰が当たるかもしれない…。
私は、その五人の子の言動を傍で見ながら、そんなことを思っていた。

和室での調理の説明の後。
調理室へ移動。
この時、子供達のそれぞれの母親は、そっとその場から離れ隣接の部屋へ待機したらしかった。
そうなると、私達参加者の出番である。
にしても、そつ無く調理を進める彼らに、私は何と言葉を掛ければいいのか…。
戸惑った。
以前の講義の話しに、『彼らには無闇に話しかけないように。』というのがあった。彼らは、ひとりひとり独特の世界をもっているが故に、突然、他人から話し掛けられたら、パニックを起こすことがあるのだそうだ。なかには、そういったパニックを起こさない人もいるのだそうだが、私は今まで、そういった特殊な人達との関わりが全くなかった為、手も足も出ない状態であった。
見かけは、五体満足で『普通の子』と区別が全くつかないのでありながら、軽く話し掛けることも出来ないとは…。
 こんな孤独な世界もあるのかと…。
私はしみじみ思った。
そんな彼らと行動を共にしての第一感想といえば…。
失礼ながら、我が子がこんな子でなくて良かった…。である。
これが、私の素直な感想である。
そうは思ってはみたものの、望まれてこの世に誕生した命でありながら、この子達とは意志の疎通がはかれないのは、何より悲しい。
我が子に、冗談の一つも言えないことはなんて、悲しいことだろう…。
それでも、この子達の未来を思うとき。
その子供達の親のことを思うとき。
今の私は何をすべきか…。
何をすれば、相手の心を救えるかを考えた。
単純に『我が子がこんな子でなくて良かった。』と思うのではなく、その子の親のことも考えられる自分になりたいなと思う。
そうして、調理の時間も試食の時間も何事もなく無事終了した。
私にとっては貴重な体験となった。

そして、その講座の最終日。
テーマは、意見交換であった。参加者全員が…、といっても十人ぐらいの人たちの集まりにはすぎないのだが、それぞれの感想を述べ、それで、御開きになるのかと思っていたところ…。
主催したセンターの方から、
 「最後に、御集まりの皆さんにお願いがあります。」
と、言う言葉掛けで、私は何事が始まるのかと耳を傾けた。
すると、
 「今、ここにおられる自閉症児もつお母さん達からのお願いがあるそうなので、聞いてあげて頂けませんか?。」
と、言われ、私は、その方の方に視線を移した。
話し手が移動したことで、その場にいた何人かの自閉症児をもつお母さん達のうち、代表であるような人がひとり、席を立った。
 「私には、自閉症の小五の男の子がいます。他のお母さん達も皆そうなんですが、いずれ、この子達が大きくなった時のことを考えると、働く意志はあっても、都会に行かなければ、この子達の働く職場がなく、そうなると、家族ごと転居しなければなりません。それだったら、都会に住めばいいということになるのですが、私達にも親がこの辺りに住んでいるものですから、簡単に都会に行くこともできません。それで、できたら、この町で彼らのような人でも働くことのできるような作業所を建てたいと思っております。ですが、それには土地探しから始まり、お金も掛かることで、今、ここにおられる何人かのお母さん達とここには都合で来られていないお母さん達との合計七人が、ここのセンター内の調理室をお借りして、月、一、二回、パウンド・ケーキやクッキーを焼いて、公共の施設窓口に置かせてい頂いております。その売り上げの一部を貯金して、それらの費用に当てたいと考え、運営をするようになって、今年で三年目になります。なにぶん、私達も少人数であるものですから、お菓子を作るといってもそんなに数をこなせませんので、できましたら、そのボランティアさんがほしいんです。それも、お菓子作りだけではなく、イベントにも行ったとき、私達の子供をその時間会場で見て下さる人もお願いできないのかと思っております。どうか、よろしくお願いします。」
その方はそう言うと、深く御辞儀をしてから着席をした。
私は、その話しを聞いた瞬間。
『渡りに船』というのは、もしかしたら逆に、私の為にあるのかもしれないなと思った。 もう。
その後の私といったら、後先のことなど、全く考えもせず、その会がそこで、御開きにったとき、先程、話しをされた方の傍にいき、
 「もしも、よろしかったら、お菓子作りだけ参加させて頂けませんか?。」
と、声を掛けた。すると、
 「大歓迎いたします。」
快く私の望みが叶った。これで、しばらくの間はボランティアに通える。時間を無駄にしないですむ。そのうえ、もしかしたら、新たに友人もできるかもしれないなと私は密かに期待した。
 「差し支えなかったら、連絡先を…。」
と、のことで、私は名前と住所と電話番号を教えた。
その私の行動に触発したのか、会場にいた何人かの人も私の後に続いたようだった。
良いことをする。というのはこういうことではないのか?とも思う。強制でしたりされたりではなく、善意でその行動を起こせるのが理想だと思う。でも。なかなか。そこまでの行動には至れないのが人間である。
行動を起こした方は、善意でしたことであっても、もしかしたら、相手にとっては迷惑なこともあるのだから、そこのところを見極めるのって、やっぱり難しいことなのかもしれない。
が。
しかし。
今回は、相手が望んでのボランティアさん探しであったから、本当にタイミングがいいというより他はない。
それも、期間は作業所を建てる資金ができるまでだから、かなり長い期間そのお母様方とのお付き合いになりそうだと予想される。
こんな私でも、必要としてくださる相手がいるということは、何より嬉しい。
そんなことがきっかけで、始まった私のボランティア活動。
 ひとりでは出来ないことでも、人数が集まって出来ることはこんなところから始まるんだろうな。
ところで、私がボランティアをするようになった本当の理由は他にもある。
 このボランティアをする時間は、今は亡き祖父母がくれた時間には違いないのだが、家から一歩外に出て、何かをしているこの時間。
 この時間だけは、私の時間であり、そして、その間だけは、辛い現実のことを考えないで済むということでもあるのだ。
ふたりの我が子は、それぞれ、日中のその殆どの時間を小学校や幼稚園で過ごし、また、主人も自宅内でありながら、家事をする私とは他の場所で仕事をしていることから、日中はたとえ僅かな時間であっても私がひとりになる時間は必ず毎日存在することになる。
このひとりになるという時間が、今の私には耐えられないぐらい辛いのである。
 どんなに辛くても、現実と向き合わなければならない私の運命…。
 私を智彦くんに会わせた、今は亡き祖母が悪いとも、また、私を不完全な妹にしてしまった智彦くんが悪いとも…、今の私にはそのどちらが悪いのかなどという甲乙の判定は付けられそうもない。
だた。
毎日、その事だけを考えて、涙する人生もまた辛い…。
だから、出来ることなら、その涙する時間とエネルギーを他の何かにかえればいい。
この先の人生もそうやって苦しみながら、智彦くんと同じ時間を生きていくことになるのなら、少しの時間だけでも涙しないですめば、それもまた、私の人生には違いない。
『外の世界を体験する。』
これまでの私の人生の視野は、もしかしたら…、いえ、もしかしなくても、他の人とは比べようもないほど、狭いものだったのかもしれない…。
 それがどんなに狭くても、私にとって、これまでの人生においては何の不都合もなかった。
そう。
祖母の死…までは…。
智彦くんとの仲は、誰にも邪魔されることなくエンドレスだと高をくくっていた幼かった頃の私…。
どのみち、どんなに望んでも、私の願いが叶わないのであれば、私は生涯において智彦くんの可愛い妹でありたかった…。
それなのに…。
智彦くんは、私を不完全な妹にして放置した…。
その罪…。
さらに、もしかしたら、私の妹・えりさえも不完全な妹にしていたとしたら…。
私は一体、誰を恨めばいいのだろう…。
そうやって、いつも誰かを恨みながら生きるのはもっと心苦しいこと…。
だったら、そのエネルギーを他の良いことに使えばいい。
他の誰かを恨むことのないように、他のことで燃えて燃えて燃え尽きたい…。
女性の平均寿命はおよそ八十年前後とある。そうすれば、今の私にたとえるなら、残りの時間はまだ四十年近くあることになる。この時間を無駄にしない為にも没頭できる何かを探し出す方がいいのに決まっている。
そこで。
何をするか?である。
このままボランティアを続けるにしても、それだけでは物足りない。
新たに他の趣味に走るにしても、今は子育て中の身。時間も足りなければ、その資金だってそんなにたくさんの融通はきかない。
そうなれば…。
思いつくことは、だた一つ。
『メール』である。
これだったら、相手さえ決まれば、自分の空いた時間で楽しむことのできる趣味には違いない。今時の若い子達のようにメールの早打ちとか、一日何十件とかのやりとりを目指すことはない。自分のペースでやりとりしていくことで、さらに知識も増えるかもしれないとしたら…、こんなにも有り難い趣味はないかもしれないと思う私は大げさなんだろうな。
で。そうなれば、次は、相手探し。
 しかし、いつもよく会う友人ではつまらないし、そうかといって、あまりにも年の離れた上や下でもいけない。しかも、メールには欠点がある。文通とは違いお互いの居住地が明かされないうえに、文字は手書きではないことから、相手の感情が想像出来ないことがある。それでも、今時は文通でさえも、ワープロ文字の人がいるので一概には言えないのだが…。それに、携帯の機能によっては写真のやりとりまで可能とする現代。こんな機能は遠方に住む家族や親戚には有り難い物だとは思うのだけど、交際相手を捜すのに使用した時は、時には残酷な結果をもたらしてしまうことになるだろう。
そんなことを考える私が今使用している携帯電話は、写真のやりとりが不可な物。そのことを主人に言わせてみれば、機械オンチな私にはそれでも十分な物なんだそう。だいだい妹・えりとのメールのやりとりだって、携帯購入後、一年以上経ってから使用開始したぐらいだしね。
たとえ、自らが望んで誕生したわけでなかったとしても、現代の文明国に誕生した以上は、やっぱり、その時代に発明された物のぐらいは自由に使いこなせないとふたりの子供達を介してできる友人の輪には入れないかもしれないから…。
そこで、私が手にしたのは、これまで、時々購入していた大人の女性が愛読する雑誌。その雑誌には『メル友募集』の欄があったのだが、当時はメールには関心がなくそれらの雑誌は押入に何ヶ月にもわたり眠っていた物だった。それを思い出してページをめくる。
 あった。あった。『メル友募集』の欄。
その募集内容をひとつひとつ丁寧に読んでいくと、相手は全て男性。その内容も過激なものが多く、メル友を求めているというよりもどうも交際相手を求めているようであった。 それを読んで、私はもしかしたらその方達を相手にメールするのは『危険過ぎる』かな?とも思ったのだが、相手が遠距離であれば会うことを強要されることはまずないだろうと考え、自分とそんなに年が離れていない人に、慣れない手つきで文章を打って送ってみた。 そんなメールを送ってから、一日経ち…、二日経ち…。十日ぐらい過ぎた頃、ようやく返事があった。その内容は、
『会えない人とのメールは希望しません。』
だった。
その返事を読んで、私はやっぱりダメだったかな…。と肩を落とした。
それでも、やっぱり諦め切れずに再度チャレンジ。
こんなにも多くの男性が雑誌で相手を求めているのなら、私の理にかなう人が一人ぐらい存在するのではないのかと考え直し二人目にメールを送ってみる。
 が。
なにぶん。雑誌が古い故に、メールアドレスを変更している人がいてもおかしくはない。だから、送っても即、相手が存在しませんの返事が…。
そんなことが、何度か続き…。
 そこで私もようやくこんな古い雑誌では役に立たないことに気付いた。
明日、本屋に行って、新しいのを買ってこよう。
そう思いながらも、本日、自分の空き時間の最後に恐々メールを送信した。
その後、しばらく待っても、『相手が存在しません。』の返事はなく…。
 やった!。
今度はどうも、私のメールを受け取った人物が存在するらしい…。
それでも…。
また。
 ダメ。
だった…。時は…。
どうするか…。
が。
私の悩みになった。
でも、受け取ってくれた相手が存在するのだから、しばらくは待っていようと決めたものの…。
 以前と同じように、一日経ち…。二日経ち…。一週間が過ぎ…。
やっぱり。
この相手もダメだったか…。
と。
思いかけた時…。
思いがけず返事がきた。
『私の文章が雑誌に掲載されてから、随分と時間が経っていたので、ビックリしました。あ・でも、どうぞ、よろしく。』
と、あった。
会えないことを条件に遠距離の方にメールをしたのに、それでも『いいよ。』との返事に、今度は逆に私の方が驚いた。
こんな紳士的な方も存在するんだな…。
そして、私はこの人物とメールを始めた。
私にとっては初めてのメル友。
 今時の若い子のようにメル友が何人もいるかだとかを友人達と競う必要はない。
 たった、ひとりのひととであっても大切に付き合うことができたなら、私はそれで十分満足だから…。
 そこで、『メールをする。』といっても、一日中、携帯電話を握り締めているわけではない。
彼には、家庭があって、仕事もあるのだから、お互い送信しても、二・三日に一回のやりとり。
それも、文通のように、B5サイズの便せんに書くみたいにそんなに多くの文字は一度に送信はできない。
だから、その内容も、お互いの住む町の天気状況だったり、趣味のことだったりとその内容にはどうしても限りが存在してしまうことになる。
だって。
どう考えても…。
メル友なんていう相手…。
どこまで、信用すればいいのかなんていう基準がないからね…。
心の底まで語りあったところで、もしかしたら、その語ったことが元でトラブルになったりなんかしたら、楽しくなくなってしまうからね。
と。
いうことで…。
たぶん。
相手にも、私の心にも、越えてはいけない垣根が存在するような気がするんだよね。
でも。
 それは、逆に考えると、相手は『紳士』であり、私は『淑女』なのかもしれないなとも思うのである。
あ・
でも。
『メール』には、一つだけ利点もある。お互いの居住地を詳しく知らなければ、その顔も声も電話番号さえも解らないままであることから、もし、メール上でのトラブルが発生しても、お互いのメールアドレスを相手に告げずに変更すればいいのである。
居住地も名前さえも知らないのだから、これで相手には恨まれることはないだろうと私は考えるのである。
そして、さらに、それを利用するなら、メール相手には『嘘』の報告も可能なのだ。
たとえば、自分の容姿や学歴だとか…、妻子がいても、独身であるとかかがそれらに該当すると思われる。
ついでに、もう一つ付け加えるなら、男性が女性に、女性が男性になりすましての返事だって可能にしてしまう。
そのことに気付かされたのは、恥ずかしながら極最近のこと。
生まれて初めて行ったパートでの勤務先で新しく友人になった女性とメールのことを昼休みの時間に話題にしていたらこんなことを言われた。
 「うちの高校生の息子が言ってたんだけどね。その息子の友達がメールしてたんやって。それも、相手は女の子やと思うとったらしいんだけど。ある時、何かのきっかけで会うことになったらしいんよ。そしたらね。相手がびっくりして、『僕は男なんだ。』って、慌ててメールがきたんやって。それで、その男の子はしばらく落ち込んでたって言うてたから、花岡さんもさっき、男の人とメールしてるって言うてたやんか、もしかしたら、相手は女性かもしれへんで。」
それを聞いて、私も一瞬。なるほど。そうかもしれないなと思った。
私のメル友は遠距離。この先、エンドレスで付き合ったとしても、会うなんてことは
ないに等しい。
だからかどうかはわからないのだが、もし相手が女性であっても、私には何の問題もないような気さえする。
が。
私達の会話を傍で聞いていたもう一人の同僚が、
 「花岡さんは、メル友サンとは会わないと言うてたけど、私だったら、相手のことが気になって、夜も眠れんかもしれん。」
と、助言。
そうよね。
人にはそれぞれ『もの』を思うモノサシは違うからね。   
しかし、今の私には他人サマから、何と言われてもそれほど関心はないかもしれない。 自らの時間が有効利用できて、尚かつ、友人にでもなれば、それで十分なんだから…。
でも…。
メル友と会う会わないは別としても、やっばり、相手が男性でないとしたら…。
それは、私にとってはかなり都合が悪いかもしれない。
だって。
これまで、私がその相手に送ったメールの内容は、どれも相手が男性であると意識して打った文章には違いないのだから、今まで一年近く付き合ってきて、この時点で相手が女性であったりしたら、私はその失礼を詫びなければならない。
そこで、その日の夜のうちにメールで恐る恐る尋ねてみた。その内容もよくよく考えたうえで、 
 『もし、あなたサマが女性であっても私は驚かないのですが、もしも、私があなたサマと同じ同性ならどうしますか?。』
と、した。
 数時間後、返事がきた。
 『君がどうであれ、俺は君と知り合えて良かったと思っているよ。』
その文章を目にした時、相手は本物の紳士かも?しれないな。と思った。
ただ。
メールでのそんな質問には、こんな答え方をしたら良いとか何とかというマニュアルみたいな物がもしかしたら存在して、相手は手当たり次第女性だと思われるメル友にはこんな文章を流しているのかもしれないとも思ってしまう私は、もしかしたら心の狭い人間なのかもしれない…。
でも、メールは相手の姿や声がまるっきり想像出来ないのだから、疑っても疑ってもキリがないぐらいの用心は必要だと思う。
せめて。自分の命ぐらいは自分で守らなければ…。
って。
そう思ってしまう私は大げさか…。
だけど。
私、メル友との御縁が元で何かの事件とかには巻き込まれたくはないな…。
何故って?。
 私は、『智彦くんとの仲を完全修復して復活させることだけを目標』にしているからね。
その目標を達成させる為には、ここで命に関わるようなことだけは避けなければならない。
メールが御縁で不倫して、その関係を清算する為にふたり揃って自殺して…。みたいな。小説のような関係。
私はそうやって、揃って自殺したところで、問題の解決はこの世でもあの世でもつかないんじゃないのかな?。って思うのよね。
 不倫していたふたりが命を絶った時、この世に残された家族や親達はきっと冷静になんて生きてはいけないと思う。
それでも。
 異性の友人がいるということは、自らの人生に花が添えられているようなものなのかもしれない。
ただ。
それが、度を過ぎるかどうかなのだ。
『度を過ぎる』と言っても、そのモノサシがまた、個人で微妙に違ってくるから難しい。 どこからが不倫でどこまでだと不倫ではないのか?。
たとえばの話しだけど。
私なら、カフェーで『お茶』をするぐらいまでなら、許されると思う。それも、個室の喫茶店とかではなく、ファーストフード店のようなその他大勢の目があるような場所であれば問題ないと思うんだけどね。
だって。
 よく考えてみてよ。
職場での同僚とかとのお付き合い。それって、男女が同じ席で食事して会話を楽しむわけだから、それが『不倫』になるのなら、世の中の働き盛りのお父様達はみんな『不倫』しているとは思わない?。
いすれにせよ。
何事もほどほどが一番なのかもしれない。
『頑張り過ぎないで生きる。』
これもかなり難しいことなのかもしれない。
そんなこんなで、メル友さんとのお付き合い。この先もまだまだ楽しめそうな気配である。

 祖父母の死から私の生活が一変して七年。
精神的にも物質的にも恵まれた環境でいたことが長かった故、物事を良い方に解釈する力はなかなか回復しそうにはないままでいた。
それでも、時間はどの人にも平等に過ぎていく。
このまま、智彦くんとの関係のことで涙しながら、苦しみながら、生きていくのも私の人生にはかわりがない。
ただ。
 大切なことは、人生何を選択しながら生きていくことかということにあると思う。
 そうしたら、やっぱり、私は涙しないですむような人生の方を選択したい。 
それを選択するのなら、フルタイムに近い仕事に就くのが一番だと思う。
仕事に就いている間だけは、少なくとも辛い現実のことを考えないです済みそうな気がするから。
それに、新たな職場で巡り会う人達との会話。ここから、得る知識はこれからの私の人生をより豊かなものに変えていってくれることだろう。

 最後に、智彦くん。
私は、あなたにひとつだけ聞いてみたいことがある。
それは。
智彦くん、あなたの娘・優子が、もし、私と同じ目に遭ったとしたら、あなたはその相手を許すことが出来ますか?。
きっと。
 どんなに心の広い智彦くんだって、その相手を許しはしないでしょう。
お願い。
 あなたが犯したその罪の重さにどうか気付いて欲しい…。
 たとえ。
それが、ほんの出来心であったとしても…。
それは、越えてはいけない一線であったこと。
初めての出会いから、その罪を償う気がないのなら、何故、そのまま男を隠し続けることが出来なかったのか…。
それとも。
あなたにとって、一番身近な存在の異性であった私とえりとの姉妹の成長を傍で見たことが、あなたの人を想う心を歪めてしまったとしたら…。
もしかしたら…。
その罪は、智彦くんと私達姉妹の三人を会わせた私達姉妹の祖母にあると、今の智彦くんだったら言い兼ねないような気がするな。
 でもね。
 私。
ひとつだけ、智彦くんに分かって欲しいことがあったの…。
それは、この世で私がたくさん努力して、ステキな女性になったところで、私は智彦くの母にとっては、その生涯においての私は『借り物のお嬢さん』にしかなれないことに気付かされていたから、せめて、その生涯において『可愛い妹のうちのひとり』になりたかったな…。
だけど、それは、もう。
 今となっては、果たせない夢。
『夢』
でしかないんだよね。
 本来ならば、永遠に智彦くんの『妹』になるはずだったのに…。
 妹になり損ねたとはいえ、私、智彦くんのお嫁さんの三奈子さんに嫉妬しようとまでは思わない。
 何故なら、私の身体には、たとえそのパーセントは低くても、智彦くんと同じ血が流れているから…。
『届かぬ想い 千粒の涙』
たとえ、その想いが相手に伝わっていたとしても…。
結ばれてはいけない…。
結ばれない恋もある。
 それは。
 私の視野が狭かったことで起こった出来事かもしれないのだが、相手が不完全な他人であったことで生じた『裏切りのない関係』故に起こった出来事でもある。

 『完』

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